クロネコの手帳

知ったこと+考えたことの記録

なぜノンクリスチャンなのにゴスペル?

先日観た映画の根底にあった問い

「信仰心がないのにゴスペルを歌うのはなぜか」について考えてみた。

(映画を鑑賞した際の投稿はこちら

 

考えてみて分かったのは、私は歌詞の内容に共感できるか否かのみで自分が楽しむ音楽を選択していないのだということ。だから、無神経かもしれないけど、内容に十分理解が及ばなくても歌えてしまう。

 

物語や絵画や楽曲なんかの創作物には、自分とは境遇も価値観も生きる時代も異なる人がそれぞれのフィルターを通して見る世界がつまっている。私はそれを興味深いと思えたら楽しむことができる。

ゴスペルの場合はキリスト教プロテスタント?)の教えに触れることができるし、聖書に出てくるモチーフやメタファーが興味深い。

 

少し前に練習をしていた’’My Shepherd’’という曲に’’Incredible father, he’s my shepherd’’という歌詞があり、子供が横で聴きながら自前で日本語に直訳して「すげーオヤジ、彼は牧羊犬」と同じ節回して歌いながら「意味不明過ぎる」と笑っていた。私はキリストを「父」と思ったり、「彼は迷える子羊の私たちを導いてくれる羊飼いだわ」と思ったりはできないのだけど、そう思える心理だとか、表現が面白いなと興味は持てる。

 

ゴスペルに限らず、歌詞の内容に1ミリも共感できない曲だとしても旋律や歌声に惹かれて聴きたくなったり歌いたくなったりする曲もあるので、歌うモチベーションにおける歌詞の比重は低いのかも。

 

だからと言って歌詞の内容に無関心でいて良いということでは勿論ない。ゴスペルはアメリカの黒人クリスチャンにとって精神的な支えとなってきた大切な楽曲だし、歌わせてもらう上で歌詞の意味を理解して、それを伝えようとするマインドは持っていたいなと、映画を鑑賞して改めて思った。

 

少し話がずれるけど、自分自身は共感できない曲でも気にせず楽しめるからなのか、楽曲の歌詞が炎上する現象がたまに起きるけど、あの歌詞に対して物申さずにはいられない方々の心理が私にはよく分からない。

 

尾崎豊の「盗んだバイクで走り出す」にしても

Eminemの‘’You selfish b*tch, I hope you f*cking burn in hell for this shit’’にしても

のぶみさん/だいすけお兄さんの「私お母さんだから」にしても

 

不謹慎だとか、言葉遣いがどうのとか、ステレオティピカルな型にはめるなだとか言って眉を顰めたり憤慨したりすることはない。歌詞と自分の属性が一部重なっていたとしても、自分について書かれたものでないことは明白だし…にもかかわらず自分や身近な人に重ねて声高に異を唱えたり情緒を乱してしまうことには、むしろ違和感や気恥ずかしさを覚える。あれはどういう心持ちが背景にあるのだろう?自分と社会を隔てる境界線の幅の違いによるものなのかな?不思議。