そんなに怒らなくても良いのにね
GW明け、子供たちが2日違いで骨折。
それから1か月、それぞれ習い事のない日に整形外科に。
スポーツ系の習い事は欠席や振替の手配。
ギプスが外れたら、今度は1人が全身に発疹。
1度目の受診で診断がつかず
2度目の受診で溶連菌に感染していることが判明。
抗生剤を処方してもらって数日、ようやく元気になりつつある。
帰るおうちはありますか
海外生活10年の学生が帰省を記録したドキュメンタリーフィルムを鑑賞した。
邦題:もう、帰る家がない
原題:I Don't Feel At Home Anywhere Anymore
邦題のつけかたが好き。
地元を離れて生きる人であれば、多かれ少なかれ感じる地元・家族との価値観の隔たりを、まったく言葉で説明せずに上手く見せている作品。
私の場合は国内外を転々としながら育ち、受けてきた教育や触れてきた価値観が親世代と異なるから隔たりを感じるのかと思っていたが、物理的に「実家」がある人の場合でも精神的なコネクションの喪失があるのだなというのが新たな発見で新鮮だった。長らく慣れ親しんだ場所が変わらずそこにあるからこそ、喪失感がより大きなものだったりもするのかな。
ちなみに、この地元に帰省した時に感じるギャップや居心地の悪さについて「まったく気にしなくてよい、むしろ自分が進化しているんだととらえた方が良いのでは」と提言している音声配信を昨年の年始に聴いたのを思い出したので、備忘のためこちらに記録しておく。
帰る家がなくなったら、新しく自分でHOMEと思える場所を作るしかない。
私にとってそれは共にHOMEを作ってくれるパートナーと結婚をすることで叶ったような気がする。今のところは。
大人に相談なんてしない
図書館で手に取った本。
「謝るなら、いつでもおいで―佐世保小六女児同級生殺害事件―」川名壮志/著
事件自体については、当時のセンセーショナルな報道から覚えていた。
手にとった動機は
▼刑罰の対象にならない年齢の子供の司法手続きの枠組みがどうなっているか気になった
▼最も間近で事件を見つめた記者の記録に興味があったから
内容が非常に重たく、借りて持ち帰りたくはなかったので週1で図書館に足を運ぶ機会にその場で読むことに。
3週間ほどかけて読了。
構成は時系列に事件を追う前半、証言がまとめられた後半とシンプル。
司法手続きに関しては以下の2点が分かった。
◆処遇の幅がかなり限られていること
◆14歳以上の少年が刑事事件を起こした際の手続きと比べて異様なスピードで進むこと
事件当日の様子、著者の記者としての葛藤、関係者への継続取材で得た証言など読み応えのある本だった。
最も印象的だったのは、タイトルになっている言葉を発した人物の証言。
その人物にだけ見えていた事件の解像度、事件が彼に与えた影響と、事件のとらえ方など、その人物の扱いが本の後ろになるまでは極端に少なかっただけにギャップが大きかった。
彼の言葉で印象的だったのは、この2フレーズ。
「子どもが大人に相談するなんて、そうとうなところまでいかないと相談しないですから」
メッセージとして通じるものは以前Netflixで観た"13Reasons Why"というドラマからも得たのに失念していた。
大人から見えない子供達の世界の中で、異変がないかどうか、問題が起きた時は察知できるはずと思い込んでしまっているけど、思っている以上に彼らの世界は複雑で気軽に相談なんてしてくれないのが現実だということ。
1人の親として心にとどめておきたい。
「わたしの」欲求段階は今ココ
Voice of ちきりんの【マズローではなく「あなたの」欲求段階は今ドコ?】を聞いた。
面白そうだなと思って私の欲求は今どの段階にあるのかというのを考えてみた。
そして気が付いたのはこの2点
①私には妻・母・娘・一社会人といった複数の顔があって、それぞれで欲求段階が異なるということ
②割と短期間で欲求段階の変動も起こりうるということ
照らし合わせるのはこちら

人は下の階層の欲求がある程度満たされたらその次の段階の欲求を求めて自己実現・自己超越に向かっていくという説。詳しくはググってみて下さい。
私の欲求段階は?
<1生理的欲求>
<2安全欲求>
治安のよい国・エリアをベースに衣食住が足りているので、十分に満たされている
<3社会的欲求>
家族がいて、仕事もしていて、プライベートの交友関係もあるのでこれも満タン
<4承認欲求>以降
ここから、自分のアイデンティティを構成する要素ごとに欲求段階が異なるような気がした。
妻として
満たしてくれる人は夫しかいないので、満たされているどうか分かりやすい。
比較的満たされていると思う。
妻としては承認欲求が満たされていたらアガリのような気もする…その先の段階に欲求がいかないような…。
母として
母としての承認欲求を満たしてくれるのは子供たち?それとも外から母親ぶりを見ている人?どちらなんだろう。
前者だとしたら子供達は生まれた時から無償の愛情を親に与えてくれて、頼りにしてくれるから確実に<4承認欲求>は満たされるな。
後者だとしたら、育児状況が外に開かれがちで、それを見ている人が多い時期=子供が幼児~小学校低学年の時期が満たされやすいような気がする。
小学生以降になると親同士が日常的に交流しなくなるので、母親ぶりを見られる機会が減る→承認欲求が満たされる機会も減る…?
少年野球のような親のコミットが大きいスポーツや中学受験の伴走を熱心にしているケースだと、母親同士で承認欲求を満たし合うことも損なう機会を得ることもありそう。
我が家はいずれのケースにも当てはまらないので「良いお母さん」として人から承認される場面は今はない。
母親としての頑張りを人から評価されたいというような欲求自体、私にあるかな。。。
私の場合は子供が乳幼児期から自分のまわりにいるママとは異なる選択・対応をしがちだったので、承認欲求段階をすっとばして自己実現欲求の方に一足飛びに行っていたのかもしれない。
<4承認欲求>が満たされているかどうかはよくわからないのだけど、なぜか<5自己実現欲求>の方はそれなりに満たされているような気がする。
マズローが正しいのであれば<5>が満たされているのであれば、自動的に<4>も満たされているということになるのかな?
働く人として
これは一緒に働いている人たちが認めてくれさえすればある程度満たされるし、数字にも表れるので割と満たされている。
今この瞬間は<5自己実現欲求>の段階にいる状態なような気がする。
娘として
日々の生活の中で私が娘として過ごす時間が占める割合は一番低いのだけど、娘としては<3社会的欲求>までしか満たされない。
両親は何故かマウントをとるような言動が多く、娘(私)が子供から「クソババア」と呼ばれる中年のオバハンになっても未熟な若輩者として扱おうとしてくるので、対両親で考えると<4承認欲求>が満たされることはない。そういう意味では総合的な私の欲求段階を引き下げる要因になっているのは自分の中の娘としてのアイデンティティなのだと思う。
以上が私の欲求段階の現状。
欲求段階は揺れ動く
自分の欲求段階がどこなのかを考えている中で、随時微動しているということにも気が付いた。
例えば・・・
◆妻としての欲求段階はセックスの頻度などで変動する(喧嘩をして間があいたりすると承認されていないような気がして段階が下がる)とか
◆母としての欲求段階も子供のトラブル対応がうまくいかないときは一気に下がるなとか
◆職場で自分がナイスだと思ったムーブに誰も気が付いていないような時には下がるし、正当に評価されていると感じると上がる
そして疑問に思ったのが、段階が上がれば上がるほど幸福度も連動して上がっていくのかという点。もう少し自分の状況と照らし合わせながら観察・分析を続けないとわからないけど、仮にそうであるとするならば、比較的高い欲求段階にあるものに自分の時間を多く割いていくことが幸せの階段を上る近道なのかもしれない。
ラブストーリー…ではなかった
なぜノンクリスチャンなのにゴスペル?
先日観た映画の根底にあった問い
「信仰心がないのにゴスペルを歌うのはなぜか」
(映画を鑑賞した際の投稿はこちら)
考えてみて分かったのは、
物語や絵画や楽曲なんかの創作物には、
ゴスペルの場合はキリスト教(プロテスタント?)
少し前に練習をしていた’’My Shepherd’’という曲に’’Incredible father, he’s my shepherd’’という歌詞があり、
ゴスペルに限らず、歌詞の内容に1ミリも共感できない曲だとして
だからと言って歌詞の内容に無関心でいて良いということでは勿論
少し話がずれるけど、自分自身は共感できない曲でも気にせず楽しめるからなのか、
尾崎豊の「盗んだバイクで走り出す」にしても
Eminemの‘’You selfish b*tch, I hope you f*cking burn in hell for this shit’’にしても
のぶみさん/だいすけお兄さんの「私お母さんだから」にしても
不謹慎だとか、言葉遣いがどうのとか、ステレオティピカルな型にはめるなだとか言って眉を
歌わずにはいられない~you can't help but to just bring it out
私は何かに没頭したり打ち込んだりした経験がない。
そこまで熱中できるものになかなか出会えなかっただけなのか、自分の性格なのか。
幼少期から2,3年おきに住む場所が変わる人生だったので、その都度アクセスできる習い事も変わり、環境的に1つの事を長く続けることができなかったからなのか。
言語も教育システムも度々変わるので、ベーシックな暮らしに順応することで精一杯だったからなのか。
とにかくいつも必死に過ごしていたような気がするものの、その頑張りの対象は自分が心から好きなものというわけではなかった。
高校を卒業するまでは目の前にある勉強をとりあえずこなし、
学生時代はそれまでの反動でダラダラすることを満喫し、
働き始めてからは滅私奉公で仕事をし、
出産後は子供たちに暮らしの全てを占有されることを甘受していた。
子供たちの手が少しずつ離れて時間ができると、その空いた時間に何をして過ごせばよいか全くわからなかった。
仕方がないので、暇な時間を埋めるためにパートを始めた。
今のところ自分の優先順位の最上位から子供たちを動かすことができないので、子育てや家事に支障のない時間帯だけ仕事をしている。
でもそのパートで埋まったのは時間だけ。充足感は得られなかった。
何か好きになれる時間の過ごし方を見つけなければ、、焦燥感が募った。
そこで出会ったのがゴスペルだった。
通りかかった場所に案内が貼られていたのを見て参加するようになった。
参加してみると思いきり歌うことも、パートごとに異なる旋律を合わせた時に生まれるハーモニーの心地よさも大好きになった。
没頭しているとか、打ち込んでいるというレベルには至っていないが、ゴスペルが自分の日常の一部になりつつあることがとても嬉しいし、40年近くかかってようやく趣味と呼べるようなものと出会えたことで不思議と安堵した。
そんなゴスペルが題材になっている映画【GOSPEL】を観た。
2年にわたり日米のゴスペルクワイアを取材したドキュメンタリー映画で、ノンクリスチャンの日本人がゴスペルを歌う現象に着目して関係者に話を聞く内容だった。
アフリカンアメリカンのクリスチャンの方々にとってゴスペル音楽とは何なのか、その想いに触れることができて得たものは大きかったように思う。
考えがまとまっていないので、ひとまずインプット歴としてここに記録しておく。
映画の中で登場する人たちが口にした印象的だった言葉を以下の通りメモ:
亀渕友香さん
「音楽が自分の心や生活から離れたところにあると感じていた。生活と結びついた音楽をみんなに届けたいと思って日本でゴスペルを始めた」
Rev. Gerald A Robinson Sr.
"Gospel music is what has brought African Americans all the way from slavery to where we are right now"
"Gospel music is the heartbeat of christians and African American community"
ルイジアナ州のゴスペルを歌う女性
"If you gonna sing, you gatta sing like you know what you're singing about.
You gotta sing loud, so people can hear you and understand what it means to you”
"When you're singing songs, it means so much to you.
And you can't help but to just bring it out"
ルイジアナの女性が、ゴスペルを歌い始めた時に叔母から言われたという「歌うなら、何について歌っているのかわかっていないといけないし、自分にとってそれがどんな意味を持つものなのか聴く人にわかるように大きな声で歌うのよ」という言葉が特に響いた。
知識と敬意をもって歌わせてもらわないといけない音楽。
改めてそこに意識を向けることができて良かった。
映画はこちらで鑑賞しました。