クロネコの手帳

知ったこと+考えたことの記録

シェアしたいのは家事なのか

シェアしたいのは「家事」よりも「子供のケアで生じる心の労」

 

「家事してます?」

年末にファミリー数組で集まった時、夫たちがそんな話を始めた。

 

横で聞きながら「私がシェアしたいのは家事なんだっけ?」と疑問に思った。数日考えてみて「家事よりも、育児にかかる心の労をシェアできる方が助かるような気がするけど、そちらはシェアしにくい。ならせめて家事をしておいてもらうか」という心持ちに行き着いた。

 

家事は子供たちの乳幼児期に比べると格段に楽だ。「抱っこして」「見て」「来て」と中断を余儀なくされながら洗濯物や料理をしていた頃に比べると、圧倒的にスムーズかつ短時間で終わる。いわゆる名もなき家事も含めて、夫が自分に可能な範囲で家事をしてくれる現状があるからこそかもしれないが、「夫にもっと家事をしてほしい」と私はあまり思っていない。できる人がやれば良いし、できる人が足りなければ外注という選択肢もある。

 

子育てに関しても、学校関係のフォロー、習い事や病院の手配や付き添い、生活習慣を定着させるための日常的な声掛けなどの作業は、一緒にしてもらえると助かるものの、できないならできないで構わないと思っている。

 

家事にせよ育児にせよ、出勤や出張で不在の場合は、そこに物理的にいないのだからできなくてもどうしようもない。

 

一方で、子供の「安全」や「情緒」を気に掛ける際に生じる心の労を1人で担うのはしんどいなと思う。シェアできる相手も、目の前にいるその子供の親であり、暮らしをともにしている夫以外で探すのは難しいように思う。

 

心を割いているからこそ発生する物理的な作業や制限もそれなりにある:

◆実際に危険がどの程度あるかとは別の次元で、学童や公園や児童館や習い事への「お迎えにきてほしい」という子供からの要請にどこまで寄り添うのか

◆対人トラブル等で子供が心を痛めている際に、どんな風に見守る/介入をするのか、どんな対応を外に求めるのか考えて決めて行動に移す負担

◆子供が学校に行っているなどで物理的な世話が発生していない間も、少なくとも片方は(我が家の場合は主に私が)災害や体調不良が発生した際にすぐに駆け付けられるエリアで仕事をしたり行動をしたりするという制限

 

実際に物理的な対応をするのが私だったとしても、そこに至るまでの道のりに思いを馳せてその心の負荷を共有してもらえると心強いだろうなと思う。

 

だけど、そこのシェアはとても難しい。

そもそもの価値観、子供との相性、子供の心の機微を察知するアンテナ。

いずれも必ずしも一致していない中で、足並みをそろえて心を割くプロセスを共有するというのは不可能ではないけどコストがかかる。可能になるまでには、新たな摩擦や別の心労を伴って時間もかかりそうな気がする。そんなことをしているうちに子供たちが育ってしまいそうな気もする。ならば、出勤前に洗濯物を干して浴槽を洗って、足りなくなったストックに目配せして発注してくれる夫に感謝してdealとするのが平和だなと思ってしまうのよね。

 

ちなみに話が少しずれるけど、親の役割分担自体が子供に与える影響についてはね、さほど気にならないわ。

必ずしも時代に即してアップデートされた模範的な形を見せなくても、子供たちは成長の中で、社会の中で、自分たちで学んで各々の価値観を形成して自分やパートナーにとって望ましい在り方を模索すれば良いんだろうと思っています。